不登校は不幸じゃなかったけど前向きにいきた方が良い

みなさんは不登校って聞くとどんなイメージを持ちますか?

実は僕も、不登校だった時期がありました。

そして本気で自殺しようとした寸前のところで、一命をとりとめたこともあります。

この記事では僕の大学生活で不登校に至り、そして大学に復帰するまでの体験談を紹介しようと思います。

結論から言うと、僕は不登校の時期を後悔していません。
あの時期がないと、今の僕はいないと強く思っています。

大学に復帰した体験談だけを知りたい方は、下の項目へジャンプしてください。

目次

大学2年で不登校になった理由

僕が大学で不登校になったのは2年生の時でした。まずはその時の様子から紹介します。

大学1年後期に入院、単位崩壊

全ての始まりは大学1年生の頃に入院して単位が崩壊したことでした。当時は試験期間ドンピシャでした。

受けられなかった試験の追試をしてくれる先生はほんの少しでしたし、追試した科目も退院翌日に試験。さすがに無理ゲーでした。

そんなこんなで取れたのは45単位中の7単位だけ。すでに試験まで終わっていた実験科目とA群科目(一般教養)だけは合格でした。

この時はチューターの先生と面談して

「誰が悪いという話じゃないから、気にしなくていいんだよ」

って言ってもらえたのですが

僕の心の中では、留年を回避するために2年生ではがっつり単位を取ってやろうという気持ちで溢れていました。

大学2年前期、覚悟を決める

大学2年生になって、覚悟を決めて勉強に集中しました。

6月の学生本因坊戦(囲碁の大会)を最後に、僕は囲碁道場をやめ、囲碁に費やす時間も減らし、勉強に時間を費やすようになりました。

ちなみに僕の学科では大学2年の前期が一番大変なカリキュラムでした。「生化学」という激ムズの科目が待ち構えており、毎年クラスの半分は単位を落とします。

にもかかわらず、僕は1年生の科目も追加で履修。

今思えば、何も考えずにただ突き進んでいるだけでした。自分のことを客観的に理解できてなかったので、このようなスケジュールを立てていたのでしょう。

当然のごとく、「生化学」も、再履修の「数学」も不合格。

めちゃくちゃ落ち込みました。

とはいえ他の科目は若干取れていたので、チューターの先生は

「よく頑張ってると思う。難しい科目は多いけど、少しずつ頑張っていこう」

と言ってくれました。すごく優しいですね。

でも、生化学も、その翌年の鬼科目「薬理学」も、その先生の担当なんですよね。

ゆうき
ゆうき

お前の科目に一番苦しんでるんだよ

っていうツッコミも届かず、笑顔でまた来年ねって言われました。

この頃から、僕は「自分は一生卒業できないかもしれない」と思い始めていました。

大学2年後期、ついに不登校になる

自分が卒業できないだろうと意識していた大学2年後期の11月、ついに不登校になりました。

きっかけは本当に簡単なもので、ある日の授業をサボったこと。

そして次の日もサボり、その次の日もサボり、気づけば大学に行かなくなっていました。

大学2年前期でも単位を取りきれなかったことによって、僕の中で頑張ろうっていう気持ちが折れてしまったんです。

友達からは色々ラインが来ましたが、全て「病気が再発したから」っていう理由で返事してました。

さすがに「大学に行きたくないだけ」とは言えなかったですね。

大学を不登校の時期にやっていたこと

そんなこんなで不登校になった僕ですが、その期間中は本当に自由気ままに過ごしました。

暇すぎたので、高尾山に行ってみました。
不登校児に遊びに行った高尾山

この時の思い出がすごく強くて、高尾山は今でも僕にとって特別な場所です(笑)

転校先を探してみた

まず考えたのが、転校先を見つけることです。大学が嫌になったのは学校の授業についていけなかったのが原因だったので、違う専攻なら行けると思ったからです。

まず探したのは同じ大学内で卒業が楽だと有名な学科2つ、そして映像制作系、メディア制作系の専門学校でした。

当時は色々調べては資料を取り寄せ、興味のままにメディア系の専門学校に行こうと思っていました。

ほぼ部屋に引きこもってブログと囲碁に没頭する

不登校の日々のほとんどは、部屋でネット碁を打つかブログを書くかでした。

実はこのブログの元になったのは、その時に書いたブログなんです。特にやることもなかったので、得意な囲碁で「いごみんの部屋」というブログを書いていました。

覚えてる人はいるかな?

ゆうきの囲碁ノート
ゆうきの囲碁ノート

大半の記事は移転させたので、残ってるのはわずかな記事だけです…ごめんなさい。

お知らせ

当時の記事を移管させた「ゆうきの囲碁ブログ」を公開しました!

そのほかにも、東洋囲碁、囲碁きっずを特にやり込んでいて、チャットで交流もよくやってました。みんなで詰碁研究会したり、朝まで対局してたり、まぁ割と充実してたかなと思います。

ある時、ネットの知り合いから突然ご飯に誘われたこともありました。数人でのオフ会だったので、なんとなく参加してみました。

ネット碁の知り合いの人はみんな知らない人なので、話していても気楽でした。
もちろん、不登校だったことは言ってません。

不登校時代の食事
不登校時代の食事

不登校だった時の食事。
暇だったので、よく自炊していました。

不登校から復帰したきっかけ

さて、ここからが本題です。

転校先も色々調べてみて、もう大学に戻るつもりが一切なかった僕が、なぜ大学に復帰し、ここまで成長できたのかを全て話します。

親に不登校を打ち明ける

最初のきっかけになったのは、母親に不登校を打ち明けたことでした。

僕は大学を辞めることを決意していたので、母親に大学を辞めて専門学校へ転校したいとラインしました。

母親も流石にびっくりして、全力で引き止めてきます。
僕の母親は結構感情的な人で、なかなか傷つく言葉も言われました。

大学の先生との面談

母親が大学のチューターの先生に電話したことで、先生も心配してくれるようになりました。

先生はかなり心配して
先生「明日授業後に教室で話し合おう」

ゆうき「教室は人が多いので、もっと静かなところで話がしたいです。」
と僕は返事。今さら教室に行ったら、友達にまで色々問いただされそうで怖かったです。

結局日曜日に先生の教授室へ行って、1時間ほど面談してもらいました。

教授室へ向かうバスの中のことは今でも鮮明に覚えています。何も考えたくなくて、何とでもなれと思っていましたね。

結論から言うと、面談したことで僕の気持ちは軽くなりました。

先生「もし君がはっきりした将来像を持っているなら中退することに反対しない。 でも今のままだと、絶対に次の困難に出会った時、また逃げ出してしまうよ。 今ここで困難に向き合うのが、君には必要なことなんじゃないの? それに、君にとって一番楽なのはこのまま大学に残ることだと僕は思うよ。」

確かに、僕は中退後のことはぼんやりとしか考えてませんでした。

スーティブ・ジョブズが大学を中退して成功したのを理由にしたり、大学なんか意味ないって言うどこかの大人の言葉にすがったりして、自分で考えることを放棄していたんだなと思います。

ギリギリの時期に、ようやく自分の甘さを実感しました。

面談の場では答えを出さず、家に帰ってじっくり考えておいでと言う先生の言葉通り、僕は家でぼーっと考えていると

着信。

だれかなって思ったら、先生でした。

ゆうき
ゆうき

いや、何で携帯番号知ってるん???

母親が教えたんでしょうか。とにかく人生でトップ10に入るくらいびっくりした瞬間でした。

先生は僕のことをすごく心配してくれたみたいで、電話に出た時には

「大学、続けます。」

と口にしていました。

本当に辛いのはこれからだと言うことも知らずに。

大学復帰を決意

このような経緯で、僕は不登校から大学へ復帰することを決意しました。

そんな僕が、最後にやったことが3つあります。

  • 引越しする
  • スマホを変える
  • 囲碁を完全に辞める

とにかく、不登校の時のことを忘れたかったです。
そして先生のアドバイスで、囲碁も完全に辞めました。

これが良かったかどうかはわからないですが、この時引越した場所の近くに今も住んでいるので、何か
縁があったのだと思います。

大学復帰後の生活【人が怖い】

不登校という空白の時間を経て大学へ復帰し、僕は山場を乗り切ったと思っていました。

しかし大学へ復帰した僕がとても困ってしまったのが、「友達が怖く感じること」でした。

大学復帰後が一番キツかった

大学生活で一番、いや人生で一番きつかったのが、大学に復学した直後でした。

友達はみんな優しくて、心配をしてくれたり、「おかえり」って言ってくれたり。今思えば、何でそんなことできるのってくらい僕に優しくしてくれました。

でも僕は、とにかく全部が怖かったです。
半年ほどほぼ人と話してなかった上、人と話すと自分の弱さがバレて笑われるんじゃないかなって思ってました。

特にきつかったのは、実験科目です。

理系の人ならわかると思いますが、実験科目ではグループになって実験をします。
しかもその時はグループでディスカッションして実験計画を立て、さらに考察してプレゼン発表をすること。

殺しにきてるんじゃないかってくらいのカリキュラムですよね(笑)

実は初日のディスカッションの後、再び挫折して1週間学校を休みました。母親に電話して、泣きながらもう学校やめると話すと、福岡からわざわざ東京まで来てくれました。

結局自分はダメだったな、あの時中退すればよかったってめっちゃ泣いてました。

本気で自殺する寸前だったんですけど、その時に救ってくれたのが囲碁でした。

「死ぬ前に1局打ちたいな」

と思って1局打つと、なぜか心がスッキリしたんです。
その時勝ったか負けたかは覚えてないけど、とにかく自分にはまだ居場所があるなって実感して、死ぬことはやめました。

その後ラインで実験を欠席したことを謝って、僕はまた大学に復帰しました。

とはいえ人が怖いのはまだ治ってません。

そこで僕が編み出したのは、ずっとマスクをつけていることです。

これはめっちゃ効果があったので、おすすめです!

自分の表情がわからないので、ちょっとだけ安心します。
試してみてくださいね。

思考停止して勉強だけに集中した

正直、大学3年生の春学期は全く大学に集中できませんでした。

それでも何とか大学に行くことだけは習慣にでき、6月の終わりにはマスクが取れるまでになりました。

とはいえ成績はボロボロ。でもそれはしょうがないです。

3年生の秋学期が最後のチャンス。

そう先生にも言われ、僕は考えることをやめました。

「もうわかった。 ここで単位を取れなきゃ僕に未来はない。 勉強以外全て捨ててでも単位を取る。」

それからというものは、授業を休まず、授業後はマックで21時まで勉強。休日も勉強しかしなかったです。

僕はよく頭良さそうって言われますけど、勉強はめっちゃ苦手だったんです。人の2倍くらい勉強しないと、ろくに単位も取れません。多分、今も(笑)

ちなみにこの時は、1学期で2つの実験科目を履修しました。

実験科目は、「プレレポート」「実験演習」「本レポート」っていう感じでかなりハードです。
大学3年生の秋学期、3ヶ月間で288枚のレポートを書き、さらに週17コマの授業をこなしました。

これでも2教科落としてしまったのですが、僕のメンタルは確実に強くなりました。

中国との出会い、大学がもっと気楽に

大学3年生の超ハードな時期、僕を支えてくれたのは中国でした。

友達ともほとんど授業が被らないし、囲碁部もやめたし、多分寂しかったんですよね。

僕は何となく中国のSNSを初めて、中国人と仲良くなりました。この時のエピソードは「ゆきと中国語。SNSのつながりで変わった僕の生活」に書いています。

大学の他に楽しみができたこと、友達ができたことで、大学へのストレスがちょっと軽くなりました。

勉強以外全て捨てるという目論見はわずか2ヶ月で終わりましたが、中国の友達がいたおかげで僕はこの期間を乗り越えられたと思っています。

絶望で人は強くなる【人生の転換期】

そんなこんなで学年を重ねていき、僕は人が変わったように単位を取り始めました。

それと同時に、自分が成長していることを実感しました。

もう人も怖くないし、ちょっとやそっとキツイことがあっても自分ならできるという自信が生まれました。

物事の考え方が根本的に変わって、自分のことを客観的に判断して、問題解決に必要なステップを本質的に考えることができるようになりました。

復帰から一年半後、僕はちょっと大学に慣れてきて、バイトを始めます。
たくさんみて回って決めたのが、地元の飲食店のバイトです。

ふとしたきっかけで始めた、街の小さな飲食店でのバイトが、僕の人生の大きな変わり目になるのでした。

飲食店勤務では本当にたくさんのことを学び、世間知らずの僕をさらに大きく成長させてくれました。半ば強制的に人と関わることで、今まで眠っていた何かのスイッチが入ったような感覚がしました。

その甲斐あってか、スタッフ評価では1位でした。

とにかくバイトが楽しかった。こんなに1つのことに夢中になったのは、囲碁を辞めて以来かもしれません。

店長からも「この子は強い子だよ」とか、周りのスタッフからも「なんでそんなに笑っていられるの」って聞かれるたびに

笑顔でその言葉を茶化しつつも、心の中では「不登校から復帰したあの時に比べれば全然キツくないよ」と思っていました。

自分でも気づかなかったくらいに、僕は成長していたと実感した時期です。

研究室配属、ようやく正常ルートへ

大学の単位も順調になって、研究室配属が決まりました。

最初に報告したのは、もちろんチューターの先生。すごく嬉しそうに笑ってくれました。

留年したせいで研究室では同期と年の差があって周りからは心配されましたが、良い同期に恵まれて、めちゃくちゃ仲良くなって、みんなとタメ口で話すし家に遊びに行くしという仲になりました。

研究の方も先生から高く評価していただいて、夏には大学院入試も合格し、今は大学院生として日々充実した研究室生活を送っています。

僕はよく、人ってこんなに変わるんだなって思います。 本当に無理だと思っても、自分が変われば世界は変わると実感した4年間でした。

不登校は不幸じゃなかったけど前向きにいきた方が良いよ

以上、不登校を経験し、死を意識するほど絶望しながらも何とか大学を卒業して、充実した研究室生活を送るまでの経緯を紹介しました。

100%自己満の日記でしたが、最後に僕が学んだ教訓を、同じ悩みを持つ方へお届けできればと思います。

結論から言うと、不登校は不幸じゃないけど前向きに生きた方が良い、です。

人はびっくりするくらい変わることができる

人が一番成長できるのは一番辛い時期、自分の成長を実感できるのは乗り越えた後に再び壁が訪れた時です。

辛い時期を乗り越えればそれは自信になるし、ある意味自分の限界がわかるので、物事を一歩引いて考えることができるようになります。

かなり辛い時期を乗り越えるとき、良い意味でプライドはズタズタになります。かっこよく見せようとか、そんなこと考えなくなります。

プライドがなくなると、ありのままの自分を受け入れることができて、結果的に自分のことを客観的に評価することができるようになります。

人が変わるのは本当に一瞬のことで、気持ちの持ち方一つで全く違う人生を送ることができます。

でも変わることができるのは、現実の自分に不満を持っている人だけです。

だからもし今、自分のことが嫌いだったり、何もかもうまくできない自分に憤りを感じているなら、それはあなたがこれから変わることができる人である資格だと考えましょう。

不登校は不幸じゃなかったけど、挑戦は人をもっと幸せにする

ここまでの経験談を読んで感じたかもしれませんが、不登校の時期、僕は特に辛いと感じませんでした。だって好きなことができるし、何にも縛られないし、大学なんか絶対行かないと思っていたほどです。

このブログも、不登校にならなかったら生まれなかったかもしれないですね。

このように不登校だった僕でも楽しむことはできます。あの時大学を辞めていても、そこそこ笑える人生にはなっていたと思います。

でも僕は、困難に挑戦することは人生をもっと色鮮やかなものにしてくれると思っています。

ネガティブな状態の自分を慰める言葉を探すんじゃなくて、自分が自分らしく生きられる言葉を見つけたいなと思います。

人は目標が明確な方が、圧倒的に努力できるからです。

もしなんの目標もなく、ただ大学が辛いから辞めていただけでは、先生の言う通り他の困難に出会った時も逃げ出してしまうかもしれません。

でもこれは、すぐに不登校をやめて挑戦するべきと言うわけではありません。

不登校の時は挑戦することが本当に怖いです。無理すれば、僕がそうだったように本当に自殺しようとするでしょう。

不登校になったり何かから逃げ出したくなったら、まず1回逃げ出すのはアリです。

でも気持ちが落ちついて、誰かに話せる準備ができた時、一歩ずつ踏み出す勇気を持つと人生は絶対に変わります。

現代は誰しもが苦しんで悩みを抱える時代ですが、少しでもみなさんの気持ちの支えになれたら幸いです。

こんなに長い自己満の日記を読んでくださってありがとうございました!

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