今回の主人公は、囲碁界伝説の棋士呉清源さんと芮廼偉さんです!
ともに囲碁界のレジェンド棋士として挙げられるスーパースターですが、その二人の間には素晴らしい師弟関係がありました。
芮廼偉さんが今でも世界のトップに居座り続けるのは、この努力があったからだと本文中で記されています。
共に支え合った師弟の物語を、呉清源さんの直筆の文章でご覧ください。
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目次
【名言続出】呉清源直筆!芮廼偉の師弟関係を語る【21世紀の囲碁】
元の記事→吴清源:我的弟子芮迺伟
オリジナル文献:天涯棋客——我们漂泊的围棋生活
芮乃伟 江铸久 著
僕はずっと故郷に注目している。
そう、中国囲碁界の発展だ。
芮廼偉(ゼイノイ)が頭角を現した時、僕はとても嬉しかった。
30年もの間頂点に君臨した54歳の芮廼偉は、今では女子囲碁界の第一人者と言われるようになった。
僕が数十年ずっと思っているのは、女流棋士が素晴らしい成績を収めたとしたら、囲碁界では、世界各国の普及やプロモーションにおいて大きな効果がある。
これは僕が家族とアメリカで囲碁普及した経験をもとに導いたものだ。
芮廼偉の対局の棋譜を見たとき、僕は彼女には男性の大会でも優勝できるほどの素質を感じた。
そんな芮廼偉が1990年、突然日本にやってきた。
芮廼偉の来日【呉清源の研究会に参加】
林海峰(台湾出身、僕の最初の弟子)の家で行なっていた研究会に、彼女も毎月二回参加した。
僕は林海峰から彼女の学習状況を聞いた。
彼女は日本のプロ棋士にはなれないし、公式戦に参加することもできない。
ただ棋士たちの研究会へ行き来するだけだ。
あるいは、偶然バラエティ性のある公開早碁棋戦に参加できた程度だ。
こんな環境でずっと暮らしていて、彼女の才能はどうして枯れてしまわないでいられるだろうか?
僕はとても心配していた。
呉清源の助手となる
僕は何年も21世紀の囲碁の研究に力を注いできた。
1992年、僕たちは公式で発表されるようなものに似た番組を撮影しようと考え始めた。
僕が共同制作社に出した条件は、芮廼偉を僕の助手とするなら僕はすぐに応じる、というものだった。
ただし、計画は100回以上にわたって日本語で講座を撮影するものであり、僕たちは彼女の日本語能力がこれに適するか心配していた。
ある日、寺本忍さんが僕に芮廼偉がすでに僕の助手となることを受け入れたと教えてくれた。
そして彼女はすべての仕事をこなすために、3月末まで一生懸命日本語の学習に取り組んだ。
この知らせを聞いて、僕は安心した。
あの時から、芮廼偉は彼女の頑固さと努力を持ち合わせて短時間で日本語のレベルを撮影の仕事で使えるほどに飛躍させた。
四月になって、彼女に21世紀の『6合』の囲碁をさらに理解させるため、研究会と特訓が始まった。
芮廼偉の中盤の力は強く、ヨセの精度も高い。
しかし布石の構成力はまだまだで、ただ布石の段階で基礎をしっかり打つことさえできれば組み立てもできるし、それが成功するのだ。
6合の囲碁とは?
呉:僕の好きな言葉に、「六合(りくごう)」というのがあります。「六合」とは古代中国の言葉ですが、「天地と四方(上下と東西南北)」を指す意味です。碁盤は平面ですから四方だけで十分ではないかとも考えられますが、石には厚みがあり、重みもありますから、眼光紙背に徹して、やはり六合がよろしいでしょう。
碁の一石一石は、六合に、つまりあらゆる方面と調和し、ピタリとその場に適合するのが望ましい。
参考記事>>呉清源の囲碁哲学
呉清源も閉口?芮廼偉と江鋳久のおしどり夫婦
僕は彼女と早碁を打ちながら、布石の道理を解説した。
特訓が終わるか終わらないかのある日、彼女は言った。
『江鋳久(こうちゅうきゅう)と結婚します。呉清源先生に僕たちの仲人を務めていただきたいです。』
僕は江鋳久はとても才能のある棋士だと知っていたし、かつて日中スーパー囲碁で素晴らしい成績を収めた棋士でもある。
僕はそれまで彼らの恋愛事情を知らなかったが、彼女たち2人が僕に届けてくれたこの知らせを聞いた時とても嬉しかった。
本当にめでたい話だったのだが、僕はこれまで仲人など勤めたことがなかったため、このお願いを断った。
あとで聞いたことだが、彼らは2人で中国大使館へ行き、結婚手続きをしたそうだ。
僕も彼らの結婚生活が美しく、幸せに満ちたものになるように祝福した。
この時から、江鋳久も僕たちの研究会に参加するようになった。
江鋳久はただ座って静かに僕たちの研究を聞いているだけだったのだが、僕はすぐに、芮廼偉が江鋳久の意見をよく聞いていることに気づいた。
そして江鋳久も僕の考え方に同意し、芮廼偉にも納得してもらえた。
これが『夫の説得力』というものだろうか。
僕は、彼らのように日常生活の中まで碁盤の上で暮らしていながら、調和のとれたおしどり夫婦というのは、なかなか見かけないものだと思った。
呉清源の弟子として芮廼偉は世界囲碁界の頂点を狙う
1993年、日本文化会囲碁代表チームが中国を訪れた。江崎誠致さんの推薦を受けて、僕は名誉顧問となり、芮廼偉は顧問に付き添って北京、成都、重慶など様々な土地を訪問をすることになった。
訪問期間、芮廼偉は僕が教える『21世紀の囲碁』で助手を担当した。
僕たちはいつも色んな場所を訪れ、たくさんの人に指導碁を打って、同時に勝ち抜き棋戦もやっていたし、多くの仕事をこなしていた。
あの時の様子を、江崎誠致さんは新潮社出版の『呉清源』の中に記載している。
『あれは北京での出来事だった。呉清源九段は講座を担当しており、中国囲碁協会の陳祖徳主席が終始一心不乱に聞き入っていた様子が、僕には深く印象に残っています。』
『陳さんの表情は、僕に21世紀の囲碁を信じさせるものでした。なぜなら、僕は聞いてもあまりわからないけれど、分かる人には十分に分かる内容だったのです!また、呉清源さんは棋理の探求も行なっており、芮廼偉さんから融合一体の協力を得て、更に囲碁の世界を超越したのです。これは、人と人とが真理を追求し理解した素晴らしいコンビでした。僕はすでに21世紀の囲碁への光を見出しました。』
1992年の応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で、芮廼偉は準決勝へ進出し、大竹英雄九段に引けを取らぬ戦いをした。
これで彼女が世界一流棋士と肩を並べる実力であることが証明された。
その時から、僕と芮廼偉の研究会に多くの新人が入るようになった。
小川誠子、王立誠、楊嘉源、麦克。
レモンドも参加して、研究会は活気に満ち溢れた。
芮廼偉の友人の牛力力や馬亞蘭もよくきていた。
彼女たちは、日本での世界大会へ参加するために来日した時、一緒にうちに来た中国の若手棋士たちに翻訳をしてあげたり、たくさんの手伝いをしてくれた。
若手棋士の参加は、僕たち研究会を更に盛り上げた。
呉清源門下への正式な弟子入りを果たす
1992年秋、寺本忍さんが僕に、芮廼偉が僕の弟子になりたがっていると言った。
彼女は自分からは言い出せず、彼に僕へ同意を求めるように頼んだそうだ。
僕は即答した。
芮廼偉は頑張っていて、気持ちも強い。僕の2番目の弟子として、世界棋戦で活躍できるだけの素質は完全に持ち合わせている。
僕はこのように思っていた。
だから申し出を一切断らず、彼は嬉しそうにその知らせを受け取った。
入門式は12月6日に行われた。
僕の弟子の林海峰夫婦もたくさん手伝ってくれて、芮廼偉の友達も僕たちの儀式へ参加した。このことを、江崎誠到さんの著書『呉清源』では次のように記されている。
『1993年12月、中国旅行から帰って間もない時、呉清源九段は芮廼偉を正式に弟子に受け入れることを決めた。この入門式は林海峰夫婦司会の元行われた。』
『僕も招待された。これは正式な会だが、オープンなものではなかった。ただ牛力力や張璇など数名の日本に住む中国棋士たちが同席していただけだった。また、芮廼偉の弟子入りを見届けようとする簡単な式だったのだ。新宿のあるフランス料理店で、開店前からロビーの一角で会場準備を行った。外国風のセッティングに柔らかな光のランプがあった。正面の椅子には呉清源夫妻が座り、その両端には赤いろうそくが立てられていた。椅子の前にはひとつの薄い座布団が敷かれており、芮廼偉はそこに三度頭をつけた。』
『このような僕の想像そのものの師弟の関係を目の当たりにして、そのとき僕はしきりに感動していた。』
『中国は礼儀の国家だという。昔は皇帝の前では三跪九叩をしていた。現在ではこれらの文化は影を潜めつつある。しかしいくつかの過程では、大先輩に挨拶するときにこのような礼儀作法を守り続けているそうだ。』
『この入門式は、この礼儀作法で幕を開けたのだろう。ろうそくは林夫妻自ら設置してくれた。弟子入りのことは、呉清源九段はただ時期に合わせただけのようだ。だからある人は礼は一度でいいと言ったが、林夫妻は三度するのが望ましいだろうと言った。』
『このようにして入門式は行われた。しかし呉清源と芮廼偉は一言も言葉を交わさなかった。芮廼偉がひざまづいて三度の礼をすると、式はすぐに終わってしまった。なんて簡単な式典なのだろうか!』
『事実上芮廼偉が入門したのは一年以上前に遡るのだ。呉清源九段は彼の21世紀の囲碁という思想を磨き上げて来た。講座の番組を収録する時、芮廼偉はずっと呉清源の助手だった。彼らの協調、息の合ったコンビという師弟関係はとっくに形成されていたのだ。』
芮廼偉、王立誠、常昊、周鶴洋、俞斌のような活気に満ちた若手棋士と触れ合うことは僕に大きなエネルギーを与えてくれた。
僕はますます昼夜問わず『六合の囲碁』の探求に没頭するようになった。
100歳になっても『21世紀の囲碁』を世界中へ広めるという使命感はまだまだ僕の中でみなぎっている。
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呉清源の元を離れる
饮其流者怀其源,学其成时念吾师
これは『飲む水がその水源を表すように、学んだ者はその師を表す』という意味。(訳者注)
芮廼偉はNHK囲碁講師の外国棋院所属棋士担当を務めた。
日本の囲碁ファンに新しい考え方、戦術を示し、これは非常に評価された。
しかし、日本では芮廼偉はたまたま月間囲碁の連載対局を打たせてもらえたが、プロ棋戦には参加できない。
1996年秋、芮廼偉は日本を離れることを決意し、江鋳久とアメリカへ行き、彼らの新天地を切り開いた。
彼女のような優秀な助手を失って、僕は寂しく感じた。
しかしそれ以上に僕はアメリカという新しい土地で彼女の才能が埋もれてしまわないか心配した。
幸いなことに彼らにチャンスが訪れた。
韓国出身の車敏洙さんは彼らの友人だった。
車さんは江鋳久、芮廼偉夫妻のためにこの2人の才能を十分に発揮できるように韓国棋院の門を叩いてくれたのだ。
1992年2月、江鋳久、芮廼偉夫妻は中国の孔祥明とともにスペインバルセロナへ行き、呉清源杯囲碁オープン戦へ参加した。また、異国の雰囲気に溢れるモロッコへも旅した。
大天才ピカソの故居を見てからマドリードへ戻ると、あるファックスが彼女を待っていた。それは韓国棋院が正式に江鋳久、芮廼偉夫妻を客員棋士として受け入れたという通知だった。
彼女はすぐに韓国へ向かった。
それは芮廼偉より先にアメリカへ帰った江鋳久が送ったものだった。
韓国の棋士たちは寛大な心を持っていて、『囲碁に国境はない』ことを証明してくれた。
圧倒的多数の賛成票によって、江鋳久、芮廼偉夫妻は韓国囲碁界の客員棋士となることができた。
僕はあの時芮廼偉がどれほど興奮し、嬉しかったのか目に見えて想像できる。
芮廼偉は韓国でも素晴らしい成績を残し、皆が知っている棋士といっても良いだろう。
僕の弟子(同時に瀬越憲作先生の門下でもある)曹薰铉はこの弟弟子をとてもよく面倒見てくれて、様々な面で芮廼偉の世話をしてくれた。
芮廼偉は帰るたびにいつも僕にその感動を教えてくれた。
呉清源から見た江鋳久、芮廼偉夫妻
日本、アメリカ、韓国そして祖国ー中国。4つの国家で拠点を持ったのは江鋳久、芮廼偉夫妻だけだ。
ただ一点、各国の大きな期待を背負う彼らの今後の負担は重い。それでも、中国を離れてからの歳月は決して無駄にはならないだろう。
長い一生の中では山あり谷ありだ。試練も挫折も避けては通れない。それを克服してしまえさえすれば、成功を掴み取ることができる。
現在芮廼偉は良い成績を残しており、これは彼女がこの数年蓄えて来た力を大爆発させた結果なのだ。
芮廼偉には体に気をつけてこれからも努力を続けて欲しいと思っている、これは全世界の囲碁ファンの期待でもあるだろう。
読者の皆さん、どうか遠い国で頑張っている江鋳久、芮廼偉夫妻へみなさんの熱意と声援を届けてあげてください。よろしくおねがいします!
おわりに
いかがでしたか?
呉清源さんの弟子愛、囲碁への情熱にあふれる文章でした。
芮廼偉さんは現役でまだまだ世界の第一線で戦っていますね。
異例の経歴を持つ彼女ですが、これからも世界中の囲碁ファンへ夢を与える活躍をしてくれることを心から願っています。
呉清源全集、書籍など
呉清源九段は日本でも伝説の騎士として多くの人から尊敬されてきました。
そんな呉清源先生の名作をぜひ碁盤に並べて感じていただきたいと思い、最後に呉清源先生の名作を並べさせていただきます。
ぜひお手にとってお楽しみください。
>> プロ棋士特集
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